靴のお手入れ。
多くの人にとってはどうでもいい話で、一部の靴好きにとっては尽きることのないテーマ。
いまはインターネットでたくさんの人の試行錯誤を知ることができて、僕のような素人にはありがたい一方で、ときどき正反対の意見があったりして迷うことも多い。
どんなお手入れ方法が良いのかということは、素材の違いにもよるだろうし、その履かれるシーンにもよるだろうし、どのような仕上がりを求めるかにもよるだろうし、その靴を履く目的にもよる。
それぞれの目的に合わせて科学的に検証すればケースごとの答えはあるのだろうけれど、目的の組み合わせが千差万別(保革を優先したいとか、ハイシャインの完成度にこだわりたいとか、防水・防汚が大切だとか、結婚式で履きたいとか、ビジネスシューズとしてお手入れ頻度を下げたいとか)で、目的が違うからこそ、これといったひとつの答えが無いのだろうと。
ここ十年くらいで「靴磨き」というジャンルに参入する若い人が増えてきた気がする。
これまでの靴磨きの印象とは異なる場所・スタイルでサービスを提供する形態が徐々に一般化しつつある。そういう若い人たちがインターネットを使って、その技術とか経験の一部を公開してくれることはとてもありがたいと思う。
ただ僕、そういう自称「靴磨き職人」さんに少し懐疑的な印象を持っていた。
僕のイメージする「職人」さんとは、すでに技術を確立した職人さんの下で厳しい指導を受けながらの下積みを経て、他人には為しえない高度な技術はもちろんのこと、その仕事の意味や技術の奥深さを体得している人だと考えている。門をたたく人は多いけれど、職人として一人前になるまでに脱落する人もたくさんいる。生業としてその仕事をしているひとすべてを「職人」と呼ぶには違和感がある。
すし職人は単に魚を切ってしゃりを握っているのではなく(それは単なる寿司屋の従業員である)、素材の良し悪しの判断から、それにあわせた切り方、出し方、しゃりやワサビの調節、お客様の好みや雰囲気、予算に合わせた料理の提供や場の雰囲気づくり、ネタの期限管理やら衛生管理や仕入れの管理、後進の指導など多岐にわたるはず。
(僕は素人なので判らないが、これ以外にも「職人が職人であるがための」違いが多分にあるはず)
皿洗いから始まって、でもただ皿を洗っている人はそれで終わりで、そんな皿洗いの過程でもどんなお皿が使われているのか、職人間で汚れの付き方に差があるのか、何が残されるのかなどわかることはたくさんあるし、先輩職人がどんなことをしているのか垣間見ることができる。それにそもそも衛生管理というのは食品業界ではもっとも重要で、その一端を任されているという重責をしっかりこなすことが期待されているということに気が付けるかどうかも試されている。食器が汚い高級料理店は見たことがない。
自称「靴職人」さんは靴好きが高じて靴を磨くことによる喜びをお客さんと共有したいというとても大切な志は感じるものの、「職人」と呼ぶに足りる技術と経験の裏打ちがあるのか無いのかイマイチわからなくて、僕の中でいわゆる経済学でいうところのレモンの話みたいになっていた。
そんな僕のもやもやとした思いを一発で払拭する記事をたまたま見つけてしまった。
かの有名なブリフトアッシュの長谷川さんが、同業者である靴磨き処ダンディズムの宮田さんについて書かれている次の文章の中の一節。
昨今の靴磨き屋の増えていることはとっても良い事だと思いますが、大した経験もせずにお客様の靴を磨いていることに僕はちょっとどうなのかなと思ってます。
暑い夏の路上で磨くと、ワックスがとろとろになって靴が光らない。
寒い冬の路上で磨くと、水を付けた手が冷たくてワックスが溶けなくて馴染まない。
高い靴の良い革を磨くこともあれば、合皮を磨くこともある。
多種多様な靴を、いろんな状況下で同じクオリティを出すことで、靴磨きの技術はかなり向上します。
良い靴を磨いて、光った~とか言っているうちは全然お話になりません。良い靴は革が良いので光って当たり前なんです。 - 靴磨き処ダンディズムに行ってきました。 | Brift H -
興味を持ってほかも調べてみたら対談で次のような発言もされていた。
これは靴においても言えることで、今から100年くらい前の靴は、ミシンもない時代だから手縫いで作られていますが、糸目が細かかったり、どうやって作るんだろうと思うような靴がけっこうあります。靴磨きも同じで、今のように道具がそろってなかった中で、きっとすごい技術はあったと思います。昔はそれだけしかやらないから、普通の人が追いつくことができないところに行けたのだと考えると、靴磨きに一点集中しないと、誰も及ばないレベルに到達することはできないだろうなと思います。 - ~21世紀の世界を見据えて~"今″を変える力 -
ほんと、「職人」ってそうだと思う。
僕ら素人でもひとつの靴を2か月の間に1回は磨くとすると年間6回前後は磨いている。それが10足あれば年間で60足分、20足なら120足分くらい磨いていることになる。20年も革靴を履いていれば平気で数千回の靴磨きを経年変化も見ながら試行錯誤やっている人はたくさんいる。「数千」の数をどう経験したかによって数だけではないことも理解できるけれど、「職人」を名乗るなら最低でも数万を期待したくなる。「桁違い」ってこういうことなんではないかと。(1日10足のペースでも、たった3年で1万になる)
教科書で技を習得してそれを正確にきっちり再現しているのではなく、サービス提供側の経験に裏打ちされた判断と技術がサービスの源泉(と思える)のだから、やっぱり一定数の経験ってとても大切だと思う。
比較的少ない足数で職人になるためには、優秀な職人に指導を受けるほかない。優秀な職人が回り道した経験の一部をショートカットすることはできる。技術の進歩とは先代を能力で超えるのではなく、先代が一生かけて体得した技術を一生かけずに体得することで、残りの時間を先代が時間が無くてできなかったことに充てることができることにある。
社会的な価値を考えるなら、現代において、その存在を知らなかった人が二次方程式の解の公式を一生かけて発見することより、先人の智慧である解の公式はありがたく使わせてもらって、ほかのことを研究して新たな発見をするほうがありがたい。
僕は素人なので長谷川さんの技術が日本一なのか、それともこの道60年のベテランに負けてしまうのかはわからない。
でも、(フィルターは多分にあるだろうが)彼の発言を見る限りでは単なる営業やコネではなく、サービスにおいて日本の靴磨き職人としてトップランクの評価を受けている理由はなんとなく理解できる。
照り返しの強い都会において真夏の路上で力を込めて靴を磨くことがどれだけ息苦しいのか、乾燥した真冬の路上で素手でクリームを塗りこむことがどれだけ冷たく、痛いのか。心を籠めて仕上げても紳士的なお客様ばかりでもないだろう。自分の靴だけしかお手入れをしたことが無い僕には決してわからない。でも彼は、高い志を持ってそれを超えて、靴磨きというビジネスを再構築した。その地位とイメージ向上に果たした貢献度は計り知れない。文字通り血と汗と涙によって築いたビジネスの矜持があるからこそ、お客様は安心して大切なたいせつな靴を預けることができるのだろう。
本当の職人さんは自分の苦労話は積極的には語らない。
インターネットで多くの情報が交換されることになったおかげで、ちょっとした文章や対談の中で垣間見ることができるようになった。
最近時間が無くてずいぶん先にはなってしまうだろうけれど、ブリフトアッシュと靴磨き処ダンディズムにはぜひ行ってみたいなぁ。