よく雑誌の煽りで「一生モノ」とか言ってお高めの商品が紹介されている。
欲しいものを手に入れたとき、金額にかかわらず「一生モノ」と思うことは多い。
けれど、それが一生モノかどうかは、結局は結果でしかないのではないかと思う。
神にまで誓った「あなたを一生愛し続けます」でさえ3割は離婚に至ってしまうわけで(ここでは「離婚率」の計算方法が妥当かどうかは問わない)、自分の気分で買ったモノを愛し続けるのはそれほど簡単なことではない。
大切なのは「一生モノ」を見つけることではなく、付き合っていく過程で「一生モノ」になることにある。
人付き合いだってそうだ。
生涯の友人と思って付き合い始めるなんてことはなくて、出会いはたまたま、時には衝突をすることもあれ、時間をかけてお互いを理解しあい尊敬しあい一生の友になっていくのだと僕は思う。
革靴であれば、履き始めは足に合わなくて違和感を感じたり、ややもすると痛いという思いもする。ところが、よほど大きなズレがなければ時がたつにつれて馴染んできて、愛着もわいてくる。そのころにやっと気が付く。
「この靴は自分だけのためのもの」
自分の足に合わせて沈み込んだ中底、何度も履かれたことで足の形に合わせて変形した甲の部分や履き口。
僕以外の誰が履いても僕が感じるフィット感は得られない。
時間はお金で買うことができない。
だから多くの時間を共有したモノに価値がある。
鼻息荒く「一生モノ」を探さなくても、縁あって自分の手元に来た目の前のものを大切にしていけば、いずれは軽い言葉のイッショウモノではない真の一生モノが手元に残る。
人間の本質的な価値が偏差値で決まるのではないように、モノの価値は金額で決まるのではない。
僕たちは「偏差値で人を判断すること」を良いことではないと思いつつ(自分はそれだけで判断されたくないと思いつつ)、偏差値に重きをおいて人を見てしまうことがある。一つの側面だけで優劣が語られてしまう。
高価な素材をつかって一流の職人さんが手塩にかけたものは素晴らしい。ただそれが自分にとっての「一生モノ」かどうかは別次元の話だ。
両親がエリートな小学校から私立に行って金かけて育った高学歴イケメンは素晴らしい。ただそれが世の中すべての人にとって理想の一生の相方になるかどうかはわからない。
自分が本当に愛せるものを振り返ると、数字やうんちくはどうでもいい、ってものが最後は強かったりしないだろうか。
一生モノを追い求めることが悪いことだとは思わない。
でもそれが単なるブランド志向だったり、値段で決まっていたりしてしまうのであれば、見失っているモノも多いのではないだろうか。
僕にとっては手元にある靴のすべてが言わば一生モノだ。
とても嬉しいことがあった日に買った靴、かみさんと最初にお出かけした日に履いた靴、結婚式に履いた靴、子どもたちとの外出用に買った靴。
いまは無きGoogle+のコミュニティで話題になって買った靴。ブログを書くために買った靴。
まだ先の娘(あわよくば孫)の結婚式に履くつもりの靴、息子の社会人初日にお揃いで履こうと思っている靴。
すべての靴に想い出があり、思い入れがある。
過去には僕の手入れが悪くて、最終的には手放した(ストレートに言えば「捨てた」)靴もある。革靴に限らず、スニーカー、スーツやシャツでさえも手放すときは何とも言えない寂しさと苦しさを感じるのは、やはり単なるモノとはいえ、時の経過とともに想い出が生まれるからに違いない。
僕は他人が決める勝手なイッショウモノではなく、縁あって出会い、自分の人生をともに歩んでくれているものをこれからも大切にしていこうと思う。
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先日、しばらく履いていなかった靴を箱から出してお手入れしました。
シューズクロークに限りがあるので、いくつかの靴は別の場所にしまっているのですが、忙しさを口実に長い間そのままになっているものもあります。
靴を箱から取り出して、ていねいにお手入れをしていたその時、その靴を買った時の想い出、履いた時の想い出が沸き上がってきました。
「そう、この靴は『一生モノ』として買ったんだった!」
歳を重ねるにつれ、モノに対する態度が熱くなりすぎず、かといって冷めた目になることもなく自然に付き合っているとおもっていましたが、手に入れたときの気持ちでさえ忘れ、想い出がある靴さえも大切にしていなかったことに気づかされました。
今回は僕自身の自戒を込めて書いています。
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「一生モノ」はすでに目の前にある。
僕たちが存在に気づきさえすれば人生に彩を与えてくれるそのものを、気づくことなく外に追い求めるだけならば永遠に心を満たすことはできない。本当に大切なものはいつも目の前にある。